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これだけは覚えておきたい!日本の江戸時代のできごと【中学2-3年歴史】

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皆さん、こんにちは。


個別指導塾ノーバス県庁前通り校の高木です。



今回は、中学生向けに日本の江戸時代(1603年〜1868年)で必ず押さえておきたい重要な出来事を紹介します。


江戸時代は、歴史の中でもテストや受験によく出る重要時代です!


しっかり内容をおさえて、自信をつけましょう!






江戸幕府の成立(1603年)

1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。


これにより、戦国時代が終わり、日本は本格的な平和の時代に突入します。


家康は江戸に政治の中心を移し、全国の大名を統制して安定した支配体制を築きました。


また、関ヶ原の戦い(1600年)で勝利し、実質的に全国の支配権を握っていた家康が正式に将軍となったことで、武家政権が確立しました。






武家諸法度の制定(1615年)


1615年、江戸幕府は「武家諸法度」を制定しました。


大名たちに対してさまざまな行動制限を設け、幕府の安定を保つための基本法でした。


例えば、「大名同士の無断結婚禁止」「城の修理は幕府の許可が必要」など、中央集権を徹底する内容でした。


武家諸法度により、江戸幕府の支配体制はより盤石なものとなりました。




参勤交代の制度化(1635年)


3代将軍徳川家光の時代、参勤交代が制度化されました。


大名たちは1年おきに自国と江戸を往復し、江戸に滞在する義務を課されました。


これにより、経済的負担を増やし、軍事力を削ぐ効果がありました。


大名が江戸に屋敷を構えたことから、江戸の人口が急増し、日本最大の都市へと発展するきっかけにもなりました。


参勤交代は、日本の地方と中央を結ぶ重要な制度でもありました。





鎖国の完成(1639年)


1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、オランダ・中国・朝鮮・琉球・蝦夷地(アイヌ)とのみ限定的に貿易を続ける鎖国体制を完成させました。


これにより、日本は外国との交流を最小限に抑え、自国文化の発展を促しました。


蝦夷地・琉球は国内の異文化圏で、通商は藩(松前藩・薩摩藩)が管理していました。


また、長崎の出島が唯一のヨーロッパ(オランダ)との接点となりました。中国・朝鮮は対馬藩が接点となり、限られた情報と技術だけが伝わる特殊な国際関係が続きました。(四つの窓口)


約200年間続いた鎖国は、日本独自の文化と社会を育みました。





元禄文化の発展(17世紀後半〜18世紀初頭)


経済の発展に伴い、大坂、京都など上方を中心に町人文化が花開きました。


浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門などが活躍し、庶民文化が大きく成長しました。


豪華絢爛な元禄文化は、町人たちの生活を豊かに彩り、商人階級の台頭を象徴するものでもありました。


この時代の文化は、現代の日本文化にも強い影響を残しています。







享保の改革(1716年〜1745年)


8代将軍徳川吉宗は、幕府財政を立て直すために「享保の改革」を行いました。


倹約を推進し、新田開発を奨励して米の生産を増やしました。


また、庶民から意見を募る「目安箱」を設置し、政治への不満や提案を受け付ける革新的な制度も導入しました。


他にも裁判の基準となる法律の公事方御定書を整備し、政治の安定化を図りました。


享保の改革は、一時的に幕府の財政を回復させましたが、庶民の負担は増えました。






天明の大飢饉(1782年〜1787年)


江戸時代最大級の飢饉といわれる「天明の大飢饉」は、冷害や洪水、火山の噴火などによって農作物が壊滅し、全国で餓死者が続出しました。


この飢饉は、農村だけでなく都市部にも深刻な影響を与え、米価の高騰や一揆・打ちこわしを頻発させました。


幕府は対応に苦慮し、支配体制の弱体化が進む大きな要因となりました。


社会の不安定さがますます表面化した時期でもあります。





寛政の改革(1787年〜1793年)


老中松平定信による「寛政の改革」は、天明の大飢饉後の社会混乱を立て直すために行われました。


農村復興策として、農民の帰農を奨励し、貧民救済を目的として実施しました。


しかし、厳しい倹約令や思想統制(朱子学を推奨)など、庶民への締め付けが強すぎたため、不満が高まり、改革は途中で失敗に終わりました。


この改革の失敗の失敗により、民衆の不満が高まり幕府への信頼が揺らいだと言われています。





化政文化の発展(19世紀初頭)


江戸時代後期、町人文化がさらに洗練され、江戸を中心に「化政文化」と呼ばれる独自の文化が誕生しました。


十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』、滝沢馬琴の長編読本『南総里見八犬伝』、葛飾北斎・歌川広重らの浮世絵など、芸術と大衆文化が花開きました。


科学・地理・医療知識も発展し、蘭学(オランダ語を通じた西洋学問)も広まりました。


化政文化は、今の日本文化のルーツともいえる時代です。






天保の改革(1841年〜1843年)


老中水野忠邦が実施した「天保の改革」は、物価高騰や幕府財政の悪化を立て直すために行われました。


贅沢禁止令を出し、町人経済を引き締め、大名の統制強化を試みました。


しかし、民衆の生活を圧迫し、商人層からも大きな反発を受けたため、短期間で失敗に終わりました。


天保の改革の失敗により、幕府への信頼はさらに失われ、江戸幕府の衰退を加速させることとなりました。






ペリー来航と開国(1853年)


1853年、アメリカ海軍のペリー提督が浦賀に来航し、開国を要求しました。


これにより翌1854年、日米和親条約が結ばれ、約200年続いた鎖国が終わります。


日米和親条約はアメリカ船が下田(静岡県)と函館(北海道)の2港で燃料補給や遭難者救助ため港を利用することを江戸幕府が認めました。


日本は外圧によって国際社会に開かれ、同時に国内では幕府に対する批判が強まり、明治維新へとつながっていきます


ペリー来航は、江戸時代最大の転換点の一つです。






日米修好通商条約(1858年)


江戸幕府は、1854年に結ばれた日米和親条約の4年後、さらに多くの港を開放した不平等条約を結びます。


その後、ヨーロッパ諸国とも同様の不平等な条約を結ぶことになり、これらをまとめて『安政五カ国条約』と呼びます。


日米修好通商条約は領事裁判権を認め、関税自主権を持たないため、明治政府にとって当面の改善課題となりました。


また、これにより横浜、長崎、新潟、神戸、函館が開港されました。


不平等な条約や開国に反対する声も高まり、尊王攘夷運動が活発化しました。





まとめ


江戸時代は、平和が続いた一方で、経済や社会のひずみが積み重なり、時代の流れが少しずつ大きく変化していきました。


重要なのは「改革(享保・寛政・天保)」と「文化(元禄・化政)」、「開国」の流れをしっかり押さえることです!


歴史をストーリーでつかんで、楽しく学びましょう!

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[2025-05-01]

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